LOGIN消灯された本社ビルの最上階は、深海のような静寂に包まれていた。足音を殺しながら、私は絢人の背中に続いて役員フロアの奥へと進む。大河内常務の息がかかった財務部の最深部——「特別アーカイブ室」の重厚な電子ロック扉の前で、絢人が立ち止まった。絢人は懐から取り出したマスターカードキーをリーダーにかざし、手慣れた指先でテンキーに暗証コードを打ち込む。カチリ、と小さな電子音が鳴り、重い防音扉のロックが解除された。「入ってください。僕が扉の前に立って見張りをします」「……ええ」室内へ足を踏み入れる。窓のない密閉された空間には、何列ものスチール製書類棚と、オフラインで管理された専用端末が並んでいた。私はデスクに置かれた専用端末を起動し、駆から渡されていた暗号解除ツール入りのUSBメモリをポートへ差し込んだ。画面に緑色の文字列が高速で流れ始める。大河内厳常務と、その息子である駿が過去五年にわたって構築してきた、海外ペーパーカンパニー群の資産移動ログ。巨額の裏金が東城デパートの正規口座から巧妙に吸い上げられている証拠の生データだ。(あった……。これだけの規模の資金洗浄なら、大河内親子どころか三島宗一の責任問題にまで発展する)プログレスバーがゆっくりと進み、ダウンロードが進行していく。[進行度:42%……55%……]その時、室外で見張りをしていた絢人が素早く部屋へ滑り込み、背後の扉を静かに閉めた。「佐倉先輩、警備員の見回りが来ます」絢人の低い囁きに、心臓が跳ねた。「エレベーターの稼働音が上がってきました。あと数十秒でこのフロアに到達します」「ダウンロード完了まで、あと一分かかるわ……!」端末の画面を凝視する。今USBを抜けば、データは破損して手に入らない。「こちらへ」絢人は私の手首を掴むと、端末の影にある大型書類保管庫の引き戸を開け、私を中に押し込んだ。自身も滑り込み、外から見えないよう扉をわずかに隙間を残して閉める。大人が二人入るにはあまりに狭い空間。背中は冷たいスチール棚に押し付けられ、正面からは絢人の胸元が隙間なく密着していた。彼の体温と、微かに漂う洗練された香水の匂いが鼻腔をくすぐる。「……っ」あまりの距離の近さに息を呑むと、絢人は人差し指を自分の唇に当て、静かに首を振った。外の廊下から、コツ、コツと規則正しい警備員の革靴の
根津親子の失脚から数日、東城デパートの社内はまだ落ち着きを取り戻していなかった。外商部長の席は空席となり、現場の空気はどこか浮き足立っている。だが、そんな混乱を嘲笑うかのように、経営陣の動きは迅速だった。「来週付で、外商部には財務担当常務・大河内厳さまの推薦で新しい部長代理が送り込まれるそうだ」給湯室の向こうで交わされる社員たちの噂話を聞き流しながら、私は冷めた緑茶をデスクへと運んだ。大河内厳。三島宗一の右腕として長年財務を牛耳り、デパートの巨額な資金運用と裏金作りを一身に担ってきた男だ。そして、15年前に父・東条正義を追い詰めた裏切り者の一角でもある。(根津の後釜を自分の派閥で埋めて、外商部の利権をそのまま奪うつもりね……)デスクに戻ると、隣でPCのキーボードを軽快に叩いていた絢人が、画面から視線を外さずに口を開いた。「佐倉先輩、少しお時間よろしいですか?」「ええ、何でしょうか」絢人は手元のタブレットをこちらに向けた。画面には、東城デパートの過去3期分の決算資料と、関連子会社の資金移動グラフが表示されている。「先ほど、財務部から新しい予算管理の通達が回ってきました。名目は『根津前部長の不正を受けたコンプライアンスの強化』ですが……実際は、大河内常務の息子である大河内駿チーフが、外商部の決済権限を財務部へ一本化するための布石です」「大河内駿……」「東大経済学部卒で、外資系投資銀行を経て財務部に中途入社した男です。父の権力を背景に、複雑な海外ペーパーカンパニーを使ってデパートの裏金を洗浄している……三島家の最も強固な『金庫番』ですよ」絢人は平然とした声で、実の父親と側近たちの暗部を解説してみせた。その落ち着き払った態度に、私は眼鏡のフレームを押し上げながら低く問いかける。「その大河内親子の裏金スキームを暴けば、三島グループの資金源は完全に断たれるということね?」「その通りです。ただし、大河内常務は根津前部長のように浅はかではありません。裏金の生データは社内ネットワークから完全に切り離され、財務部の最深部にある『特別アーカイブ室』の専用端末にしか残されていない」「特別アーカイブ室……」入館権限を持つのは役員と一部の財務部上層部のみ。一般社員である私には、扉を開けることすら不可能な要塞だ。絢人はふっと口角を上げ、私をまっすぐに見つめた
夜の冷気が路地裏に立ち込める中、私はビンテージショップの重い扉を押し開けた。カウベルの乾いた音が響く。カウンターの奥では、駆がノートPCの青白い光に照らされながら、手元のキーボードを叩いていた。「遅かったな、志乃」顔も上げずに駆が言う。灰皿には吸い殻が山のように積まれていた。「根津親子の件、ネットの反応は上々だ。息子の健太は契約解除、親父の栄治も背任の疑いで検察が動きそうだぜ。まずは一匹片付いたな」「ええ。ありがとう、駆」私はカウンターの席につき、バッグからシルバーのUSBメモリを取り出してことりと置いた。駆の指が止まる。視線を画面から外し、不審そうに金属の小片を見つめた。「……なんだ、それ」「三島グループの機密金庫と、取締役会専用サーバーのアクセスコードよ。三島宗一の裏口座のリストも一部入っているわ」「は? どこで手に入れた」「絢人からよ」店内の空気が一瞬で凍りついた。駆はゆっくりと顔を上げ、細めた目で私を射抜くように見据えた。「……あいつ、お前の正体に気づいてんのか」「ええ。7年前に自殺を止めたのが私だってことも、母のことも、全部知っていたわ」「なっ……!」駆は椅子を蹴るように立ち上がり、カウンター越しに私の腕を力任せに掴んだ。その瞳には、かつて見たことがないほどの焦燥と怒りが宿っている。「おい、正気かよ! なんでそんな危険な奴を生かしてんだ! すぐに姿を眩ますか、あいつを消す算段を立てるべきだろ!」「落ち着いて、駆。痛いわ」私は眉ひとつ動かさず、冷徹に言い放った。「絢人は私を告発する気はないわ。それどころか、復讐に協力すると言ってきたのよ。このデータがその証拠よ」「協力だあ? ふざけんな!」駆は吐き捨てるように声を荒げた。「仇の息子が、自分の父親を売るために敵に手を貸す? そんなイカれた話があるか! そいつはお前を利用して何か企んでるか、お前を道連れに破滅する気だぞ!」「それでも構わないわ」私は駆の手を冷たく振り払った。「使える駒はすべて使う。それが三島宗一の息子であってもね。三島家を内部から瓦解させるのに、これ以上の手札はないわ」「志乃……ッ」駆は苦々しげに顔を歪め、言葉を失った。「解析をお願い。このデータが本物かどうか、あなたが確かめて」私はそう言い残すと、背を向けて出入り口へと歩き出した
「僕をあなたの本当の『仕事』に付き合わせてもらえませんか?」早朝の外商部オフィスに、絢人の声が静かに響いていた。私は背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、眼鏡の奥で目を細めた。表情筋を総動員して感情を押し殺し、冷淡な声を作る。「……何の冗談かしら、三島さん」「冗談に見えますか?」絢人は一歩も退かず、澄んだ瞳で私を見据えていた。「七年前、僕が生きていられたのはあなたのおかげです。そして、僕がかつて心を救われた女性……東条華江さんの娘さん。東条志乃さん、それがあなたの本当の名前ですね」私の喉が小さく鳴った。隠し通してきた過去と正体。それが、父を殺した仇の息子によって、完璧に暴かれている。「知っていて、なぜ今まで黙っていたの? 私を警察に突き出すことだってできたはずよ」「突き出す理由がありません」絢人は穏やかに首を振った。「僕はこのデパートの腐敗も、父が過去に犯した罪も知っています。そして、あなたが復讐のためにここへ来たことも。……僕はあなたを止めるつもりはありません」「……信じられるわけがないでしょう」私は冷ややかに言い捨てた。「あなたは三島宗一の息子よ。いずれはこのデパートを継ぐ身。そんなあなたが、自分の家を壊そうとする私に協力するなんて、罠以外の何物でもないわ」「そう疑うのも無理はありません」絢人は上着の内ポケットに手を入れると、小さなシルバーのUSBメモリを取り出した。それを私のデスクの上に静かに置く。「これは?」「三島グループの機密金庫と、取締役会専用サーバーへのアクセスコードです。父が個人で管理している裏口座のリストも一部入っています」私は目を見開いた。「……これを私に渡して、どうするつもりなの」「使ってください。僕が本気である証拠です。これがあれば、父の側近たちの不正を暴くのはもっと容易になるはずです」デスクの上のUSBメモリを見つめる。これが本物なら、復讐の速度は跳ね上がる。だが、それと同時に、この男の底知れない闇に足を踏み入れることになる。「なぜそこまでするの。あなたにとって、何のメリットもないはずよ」「メリットならありますよ」絢人はわずかに口角を上げ、どこか哀しげに微笑んだ。「あなたが復讐を果たし、すべてが終わるその瞬間まで……僕があなたの隣にいられる」狂気すら孕んだその瞳に、私は息を呑んだ。こ
根津親子の連行から数時間後。東城デパートの社内にさらなる激震が走った。社内処分だけで終わらせる気など、私には最初からなかった。駆の手によって、健太が主導していた模倣品の流用ルート、パワハラ動画、さらには根津部長の裏金口座を示す決定的なデータが、SNS上へ一気に流出・拡散されたのだ。「ネットで大炎上してるぞ……! ニュースにも出てる!」「根津部長、完全に終わりだな……」オフィス内にざわめきが広がる。社内での地位だけでなく、彼らは社会的にも二度と再起できないどん底へ叩き落とされた。(15年前の裏切りの報いよ。まずは二人……)私は静かに立ち上がり、勝手口から夜の街へと踏み出した。◇人通りの途絶えた路地裏。ビンテージショップの扉を開けると、カウベルが低く鳴る。「派手にやったな、志乃」カウンター越しに駆が煙草の煙を吐き出した。モニターには、根津親子の不正を報じるニュース画面が映し出されている。「ええ。これで根津親子は完全に終わりよ。ありがとう、駆」パイプ椅子に腰掛け、深く息を吐き出す。胸を満たすのは、冷たい達成感と、僅かな疲労感だった。駆は煙草を灰皿に押し付けると、不意に真顔になって私を見つめた。「……で、例の三島のボクちゃんはどうなんだ? 根津が失脚して、社内は大騒ぎだぞ」「絢人は何も気づいていないわ。私を疑う素振りをしながらも、結局はただの優秀な御曹司よ。私の次のカードとして、うまく扱ってみせる」「……そうかよ」駆はどこか納得のいかない表情で呟いた。「ならいいが……あいつの目つき、ただの坊ちゃんじゃねえぞ。深入りしすぎるな」「分かってるわ。私を誰だと思っているの」私は立ち上がり、店を後にした。◇翌朝。根津部長が不在となった外商部オフィスは、静まり返っていた。誰もいない早朝のオフィスで書類を整理していると、背後から静かな足音が近づいてきた。振り返ると、そこに立っていたのは絢人だった。「おはようございます、佐倉先輩」「おはようございます、三島さん。朝早くからどうされたのですか?」私はいつもの地味な先輩社員の笑みを浮かべた。しかし、絢人は笑い返さなかった。上質なスーツを纏った彼は、まっすぐに私を見つめると、ゆっくりと深々と頭を下げた。「三島さん……?」「佐倉先輩。……いえ、東条志乃さん」低く通る声で紡がれたその名
「そこまでにしてください、根津チーフ」絢人の低く通る声がオフィスの空気を一変させた。掴まれた手首を押さえ込まれ、健太は痛みに顔を歪めた。「三島……っ! お前、新人のくせに俺に気安く触るな!」「社員への不当な言いがかりや暴言は、社内規定違反です。お引き取りください」絢人は健太の腕を静かに振り払うと、私の前に庇うように立ち塞がった。その背中は崩れず、堂々たる威厳を漂わせている。「ちくしょう……! 佐倉、お前絶対に許さねえからな!」健太は吐き捨てるように言い放つと、乱暴な足取りでオフィスを飛び出していった。息子の尋常じゃない動揺を察した根津部長も、顔色を失って後を追う。「……佐倉先輩、大丈夫でしたか?」振り返った絢人は、いつもの穏やかな表情に戻っていた。「ええ、助かりました。ありがとうございます、三島さん」私は怯えた社員のフリをして頭を下げた。(健太のあの焦り方……監査室が動いたわね)私は給湯室へ向かい、お茶を淹れるフリをして自分の呼吸を整えることにした。廊下を進み、給湯室のドアを開けようとしたその時、背後から強引に腕を引っ張られた。「おい、待ちやがれ!」給湯室の中に引きずり込まれ、背後のドアがバンと大きな音を立てて閉まる。立っていたのは、激高して肩を上下させている健太だった。「根津チーフ……何を——」「とぼけるんじゃねえよ! 親父に聞いたら、今回の監査データは外商部端末のIPから送信されてたって言ってたぞ! お前だろ、俺をハメたのは!」狂気に満ちた目で、健太が私の胸ぐらに手を伸ばしてきた。(……浅はかな人)私は一切の感情を消し、胸ぐらを掴まれる直前、極小の動作で健太の手首を掴んだ。そのまま身体の軸を回し、関節の構造に従って手首を軽やかに捻り上げる。「痛っ……!? が、あ……っ!?」健太の巨体が、悲鳴とともに壁へと押し付けられた。「な……何なんだお前……手が、折れ……っ!」壁に顔を押し付けられ、冷や汗を流す健太の耳元へ、私は眼鏡の奥から低く冷徹な声を滑り込ませた。「興奮なさらないでください、根津チーフ。言いがかりで同僚に手を上げれば、それこそ本当にお立場を失いますよ」自分の犯行など一切匂わせない。あくまでも冷酷に、理知的に、相手の逃げ道を塞ぐ。「お前……化け物……っ」「私はただの社員ですよ。……さあ、手を離し







